西日本実業大会と言うと、昭和五十四年に新日鐵柔道部監督に就任し、初めてプレーイングマネージャーとして出場した第十九回大会で、ライバル旭化成との決勝戦は双方相譲らずの激戦で、大変印象に残っている。
試合は、渡辺、丸谷、鮫島、竹丸、私の五人引き分けて、更に、代表戦もこれまた五人が引き分けた。
その時、本部より両チームの監督が呼ばれ、大会要項では「勝負が決するまで代表戦を行う」となっているが、大会運営上、次の代表戦で勝負を決したいという提案があった。
私は、あくまで大会要項どおり行うことを主張したが、結局は本部提案通りとなり、最後は私と上村選手で決着をつけることになった。
結局は、運良く終了間際に掛けた小内刈がポイントとなり熱戦を制することが出来、また、第三部も頑張り優勝してくれ、監督就任早々嬉しい思いをすることが出来た。
ただ、一ケ月後の全日本決勝でも旭化成と対戦し、まったく同じ展開となり、再び上村選手と最後の代表戦を戦い、西日本の仇を取られ悔しい思いをした。
※ 西日本実業柔道連盟40周年記念誌「温故躍進」から転載
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